あらゆる人間の一生はみな「胡蝶の夢」の如し

今年はじめにオフ会をした。相手はSNSのフォロワーさんだった。会うまではとても緊張して心臓がバクバクして直前になると憂鬱な気持ちがエスカレートして(やっぱり辞退させてもらおうかな)なんて弱気なことを思っていた。しかし、会ってみたら案外おもしろくて充実した時間を過ごすことができた。(またいつかこの人と会ったり話をしたりしたいな)なんてことを思った。でも今はどこで何をしているのかはっきり知らない。でも、なんだかそういう人間関係もそんなに悪くないような気もする。

 

 

今年はそのオフ会を除けば人と会う機会はなかった。ずっと独りで内省していた。私はあれこれ・ああでもないこうでもないと考えるのが好きで学生の頃も窓の外を見ながら考えごとをする癖があったのでよく周りの人から「ぼーっとするなよ」と言われていた。今はもうそういうことを言ってくれる人も身近にいないので好きなだけ「ぼーっと」している。

 

 

つらつらとあれこれ考えていていつも到達する結論→「きっと私は独りが好きなのだろう」。誰かと会って世間話をしたり食事をしたり遊んだりするのもたしかに楽しい。しかしどうやら私は独りのほうが楽しいみたいなのだ。この「楽しい」というのは積極的な「楽しさ」というよりも単に「独りの方が楽だ」ということなのかもしれない。私は独りであれこれ考えたり悩んだり苦労したり楽したり遊んだりするのが好きだし何より独りでいても孤独感や寂寥感、憂鬱感というのをほとんどあまり感じないのだ。高校生の頃によく思っていたこと「みんなが私のことを放っておいてくれたらこの世界はもっと美しかったのに」あるいは「私がはじめからおわりまですべて存在しなければ世界は完璧だった」。今の私は誰からも放っておいてもらっているしある程度自由だ。死ぬまでにもうすこし自由になっているとさらによい。

 

 

そうして私は死ぬのだろう。

…実を言うと私は私が死ぬこと自体はあまり怖くない。高校生の頃から「はやく死にたい」と思い続けてきた。もう15年以上「死にたい」と思ってきたのだ。15年間「死にたい」と願い続けてわかったことは「人は死にたいと願い続けるだけでは死ぬことはできない」ということだった。これが「あいつが死ねばいいのに」という呪詛の念であれば少しは効果があったのかもしれない。

 

 

私は私の死よりも私の大切な人や罪のない人…いや私にとって大して大切でもない人や私に対して悪意のある人、「お前なんて死ねばいい」と思っている人も含めて人々が泣いたり苦しんだり死んだりする方が嫌だ。私が独りでいたいのも「他人の苦しんでいるところを見たくない」からだ、というのが大きい。私が世界の平和を願って即身仏にでもなれば少しは気が楽になるのかなあ、などと思うときもあるのだけれど、なんだろう?少し違う気がする。

 

 

2021年の変化。子どもがかわいくてしょうがない。親戚の子どもはいい子でかわいくてもうそんな年頃じゃないのに抱きつきたくなる。他人の子どもも同じくらいかわいい。赤ん坊がギャアギャア大きな声で泣いているのを聞くととてもうれしくなる。ふと脳裏に思い浮かぶ「幸せな家族の肖像」。そこに私の居場所はないのだけれど。こんな私が「家族って素晴らしいなあ」などと思うのはとても尊くてそれと同時にとてもグロテスクなことだとしみじみ思う。

 

 

そんな感じで今年の振り返りを終わりにする。もしこの日記をここまで読んでくれた人がいたら感想を伝えてほしい。あるいはもし私になにか書いてほしいことがある人がいたら伝えてくれるとうれしい。それについて書くかはわからないけれど何かしらの気持ちを伝えてくれたらそれだけでうれしい。できれば「あなたなんか死んでしまえばいい」みたいな呪いをかけてほしい。そうやってカルマを積めばもっと早く死に近づけるから。ソレニシテモコメントランスラナイコノブログノカンソウハドコデドウヤッテツタエレバイインダロウネ?